記念碑文を読み、縦書きを横書きにし、漢数字を算用数字にしてみた。
蛭沼陸田開拓のあゆみ
この地は旧荒川の堤外地で、外野(そとの)と呼ばれている。江戸時代に耕地として開発され、もっぱら畑作地として利用されていたらしい。昭和初期には、その約半分は桑園であった。第二次大戦後、食糧増産の気運とともに埼玉県の指導によって昭和24年に荒川第一地区開拓事業がはじまり、耕地の区画整理が行われた。同時に、水稲を作付けしようという農家が集まり、陸田化計画がスタートした。新井房吉氏・新井栄一氏・大棹俊吉氏・斉藤精次氏の四氏が発起人となり、翌年「蛭沼陸田組合」が誕生したのである。その概要は次の通りである。
・水田面積 約5町5反歩
・組合員数 28名
・施 設 10馬力モーター口径5インチ渦巻ポンプ
その後、昭和28年に拡張され、耕作者のほぼ全世帯が加入する現在の形となった。同時に、「蛭沼第二揚水組合」と改称した。
・水田面積 約11町5反歩
・組合員数 53名
・施 設 20馬力モーター口径8インチ渦巻ポンプ
これにより水稲と麦の二毛作が定着し、所得が倍増することになり、農家経営の安定に多大な貢献をすることになった。しかし、このような努力の賜物である蛭沼の耕地は、その後大きな歴史的な変遷を辿ることになった。昭和40年代には、国策として減反政策が全国各地で進められ、この蛭沼も大きな影響を受けた。さらに昭和47年には、県立青年の家及び市立老人福祉センター建設のために揚水機場を移転した。昭和50年代に入ってびん沼調節池治水対策事業が始まったことにより、この祖先より受け継いできた土地が買収されることになった。土地を手離すことは、農民にとって大変つらいことである。しかし、人々を洪水から護る為の大切な事業に、関係地主はびん沼調節池地主会(会長新井弘氏)を結成し、最大限の協力をした。平成6年にその用地買収が終わり、蛭沼は耕地としての使命を終えた。
この地に、トンボや蝶が飛び交う公園の完成を心から期待して、蛭沼第二揚水組合の約半世紀にわたる歩みを記念碑に記し、ここに本組合は解散する。
平成8年8月吉日 撰文 蛭沼第二揚水組合