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  • 「疱瘡(ほうそう)神社御由緒」を写す / 榛名神社

    榛名神社の摂末社の疱瘡神社の御由緒が掲げてありました。 祭神 大禍津日命(おおまがつびのみこと)  西日本をイナゴの虫害が襲った享保の大飢饉(享保17年1732年)、また、奥羽(東北全般)の冷害を発端とする天明の大飢饉(天明2~7年1782~1787年)、天明3年の浅間山噴火による更なる冷害の時代に近い、安永年間(江戸中期1772~1781年)、村内に建立したと伝えています。  疱瘡とは痘瘡(とうそう)つまり天然痘の俗称です。疫病に関する不可思議を神として奉りました。  疱瘡神様の色は「赤」なのは、本能的発想的に元気を色に例えると赤になる。疱瘡のときの赤い発疹は予後が良い。血を忌むから。など諸説あります。  腸チフス菌、コレラ菌、1918年発症のスペイン風邪から現在にいたるインフルエンザ、またコロナウイルス等、人は、過去も、未来も、菌、ウイルスと共存しています。  疫病鎮静平癒を願い、同じ地球で皆平和で楽しい未来への行動をお守りされます。

    2020/10/04 17:34:08  拍手(0)

  • 今回も境内にある「至誠一致之美影碑」の内容を写す / 正網氷川神社

    至誠一致之美影碑 国民の武士的精神に富めるは我帝国の精華として 宇内万邦の称揚惜かさる所なり 抑在郷軍人の任た る上勅諭勅語の御趣旨を奉礼し戮力協心常に軍人 精神の鍛練に努め軍事知識の増進を図り 以て世界 の平和を保証し国家の隆昌に対揚せんことを期す るに存り 故を以て之れか団体施設の事たる一にし て足らすと雖も動もすれは其の経費の関係より左 齬右齟思うて為す能はさるもの一再にして止まら す 洵に以て憾と為す前分会長故正八位輜重兵少尉 高野辰君 夙に之れを概き乃ち提議して基金造成の 計を立て大正6年11月基金募集の議を決し翌7 年之れに着手し以来5星霜挙村亦翕然として之れ に応し醵金3000余円に達し分会の基礎始めて確立 することを得たり 因つて賛助諸彦の芳名を石に録 し其の赤誠を無窮に伝ふと云爾 大正11年11月25日            帝国在郷軍人会水谷村分会撰           埼玉県入間郡書記関野亀之助書 ************************* 漢数字、旧漢字は変換、カタカナはひらがなにしています。 前回と同様に、明治・大正時代の碑文の「読み下し」は難しいですが、「帝国在郷軍人会」の様子を垣間見ることができます。

    2019/02/24 18:09:29  拍手(0)

  • 境内にある「耕地整理紀功碑」の内容を写す / 正網氷川神社

    耕地整理紀功碑 耕地整理紀功碑 埼玉県知事正五位勲四等島田剛太郎篆額 我邦古称瑞穂国土壌肥沃人情敦朴至輓近人多地少漸生争鬩則整理耕地以通灌漑 以増地力蓋可謂済時之急務也入間郡水谷村整理地区南沿柳瀬川東隔新河岸川接 宗岡村東西1300余間南北550間面積83町1段2畝21歩而水源 窮乏僅有2潴水以供灌漑然其排水口土地甚低下与柳瀬新河岸水路僅通耳以故旱 歳田無完毛水歳則逆流汎濫就中如明治40年及明治43年洪水没全区稲梁枯腐悲 惨不可名状郷之先輩有志苦慮経年会農商務省有奨励耕地整理之挙下付補助金本 県亦給以低利資金村人踴躍鋭意従事遂用/隣村三芳村竹間沢大排水為水源設耕地 整理組合明治44年2月18日起工至同年10月6日竣工塍路井然溝澮称之運 搬之便灌排之利莫一不備而新得耕地5町3段歩於是積年之望始達闔村開愁眉洵 為昭代盛事焉鳴呼村人能利此機一致協同無愆厘生之道則今日之挙豈惟済時之急 務而己余久為本郡長常目賭惨状与有志先輩同憂者則碑銘之請不可以不文辞乃為 叙其梗概以貽後人銘日 克勝天時 克制地利 協心致和 剪除旧異 河伯戢威   炎帝釈奰 良穀穣々 嘉禾穟々 衣食己足 人知礼義 郷俗以敦 萬世受賜 大正2年1月上浣 埼玉県入間郡長従六位勲五等市川春太郎撰 埼玉県入間郡書記     神山太三郎書 ************************* 漢数字、旧漢字は変換しています。漢文・漢詩調のため解釈が難しいですが、概要を推測することは出来ると思います。碑文読解については、「田んぼ今昔」(平成26年春季企画展<難波田城資料館>の図録)を参照しました。

    2019/02/17 17:52:17  拍手(0)

  • 鶴瀬小学校開校120周年記念碑の内容を写す(漢数字を算用数字にする) / 「あなたのふじみ☆スポット」教えてください

    開校120周年記念碑 鶴瀬小学校は、 明治6年11月23日大字鶴馬来迎寺に、鶴馬小学校として開校以来120周年を迎える、 明治14年9月15日現鶴瀬公民館の場所に移転し、鶴馬学校と改称する。 明治22年4月21日鶴馬村と勝瀬村が合併して鶴瀬村が誕生したのに伴い、勝瀬学校と統合し鶴瀬学校となる。 明治25年4月21日小学校令により、鶴瀬尋常小学校と改称し、開校記念日を5月1日と定める。 明治39年7月20日鶴瀬尋常高等小学校と改称する。 昭和8年11月23日現在の地に校舎を新築し移転する。その時、地域の方より銀杏の苗が寄贈され、その後、60年間の歴史を見守り大銀杏へ成長する、現在この大銀杏が地域や本校のシンボルとなっている。 昭和36年頃より本市も都市化に伴い急激な人口増となり、鶴瀬西小学校、関沢小学校、勝瀬小学校、諏訪小学校と分離し現在に至る。心や勉学の拠り所であった卒業生の当時を偲ぶ熱き思いは、その後も、この地で育つ後輩たる児童たちによき校風として受け継がれているものと信じる。 ここに本校120年の歩みを記念し先人の偉業を賛え、更なる発展を願い、ここに記念碑を建立する 平成6年3月吉日 富士見市立鶴瀬小学校 開校百二十周年記念事業実行委員会 歴代PTA正副会長会 卒業生有志の会

    2018/12/02 16:56:29  拍手(0)

  • 記念碑の内容を写す / 来迎寺

     抑々 當山の草創は遠く慈覺大師とも鎌倉時代とも云われているが定かではない 当時は西の方、柿沢に建立されたらしいが再三の火災に遭い その都度移転し此の地に再建されて現在に至っていると云い伝えられている 旧堂宇は今から凡そ三百年前に僅か数十戸の檀信徒各位の篤い護法崇祖の念と浄財によって建立されたものであった  爾来 年々発展し近在の信仰の道場として栄え わけても延享の頃より安政の頃にかけて、即ち秀順・永運・蓮海日光須・叡渕・義渕・智道・貫真・恵教・順海等の各和尚の徳を慕い遠く別所・内間木村・膝折方面からの参詣も盛んであった 然し明治の中頃から暫らくの間 無住の時代が続いた為に往時の面影が薄れてしまったのが残念である  近年に至り 先住眞海和尚来住し本堂・庫裡の大修理を行い境内等の整備が行なわれ信仰の道場として、又 ご先祖さまの永眠の霊場としてふさわしい姿となった  しかしながら幾星霜経た堂宇は損傷甚だしく ついに改築のやむなきに至り住職及び世話人各位の発願により建築委員並に檀信徒各位の五年間もの長期に渉る物心両面の尽力により現在の本堂が完成されたのである ************************************ 本堂落慶記念 昭和五十六年十一月吉日

    2018/11/25 17:05:00  拍手(0)