上南畑地区産業団地(ららぽーと横)が整備される前に原風景を記録する
あちこちで田植えが始まったのに、ららぽーとのバイパス横のエリアはその気配がない。そうだ、上南畑地区産業団地整備が始まるのだ。その田園風景を記録しておこうと、ららぽーと屋上で撮影した。
あちこちで田植えが始まったのに、ららぽーとのバイパス横のエリアはその気配がない。そうだ、上南畑地区産業団地整備が始まるのだ。その田園風景を記録しておこうと、ららぽーと屋上で撮影した。
GW中に散歩していたら、個人宅の庭でトチの花が咲いていた。嬉しくて写真を撮った。というのは数は少ないが水子貝塚公園、中央図書館で見かける。だが、花の咲いているのを見たことがない。以前にはみずほ台中央公園にもあったらしい・・・
秋になると枠内のような殻内に実が熟す。「トチの実」のアク抜き技術を獲得した縄文人は結構食したらしい。現代人は、これを使ったアクセサリーや、「とち餅」でお世話になっている。
今回の橋名は川に架かる橋ではなく陸橋です。
皆さんのご存知のこの景色(鶴瀬駅からららぽーと・市役所に向かう道)。この道は富士見市のメイン道路になりましたけど、まだ「〇〇通り」というような愛着のある良い名前がついてないですよね。
ですが、その陸橋の名前は「諏訪橋」です。
ヤオコーの近くの「土地区画整理事業」の竣功記念碑の碑文に、整理事業の概要が記されています。
県道ふじみ野朝霞線(266号)と砂川掘りが交差するところは暗渠化され橋がどこにあるの? 交差点信号には弁天橋となっている。その近くの道路脇にも弁天橋の標識が立っている。この場所はふじみ野市だが富士見市との境界線でもある。
そしてこの弁天橋付近から上沢2丁目の交差点あたりがギンバ坂。ふるさと探訪部会の「ふじみの坂」冊子を参照・・・
明治の終りの頃は、大井町に下る道は、この坂だったため広く利用されたという。坂は急坂で近くに馬を引く馬喰をしていた銀八さんがいたので、地元では銀八さんにちなんで「ギンバ坂」、少しはなれたところでは、「銀馬喰」、「ギンパ坂」と呼んだ。
「岡の坂」交差点をご存じですか?
県道ふじみ野朝霞線(266号)と浦所バイパスと交差するところ。その交差点から所沢方面に向かう歩道に「水子橋」の名前があり、県道では志木に向かう歩道に「貝塚橋」、「水谷橋」がバス・ストップの近くで見られる。道路に立っている橋名だが水路があることを示している。
写真はバイパスの歩道に立つ水子橋
ココシル☆ふじみには、新河岸川・柳瀬川・砂川堀・富士見江川の橋名が案内されている。当市には、そのほかにも小河川の橋名の銘板を見ることがある。
南畑大排水路(びん沼川・登戸樋管~新河岸川・南畑大排水樋管)には6ヶの橋名があった。
びん沼川⇒①新田橋(しんでんばし)⇒②下南畑橋(県道113号・川越新座線の立教グランドあたり)⇒③ふれあい橋⇒④柳堤橋(やなぎつつみばし)⇒⑤せせらぎ橋⇒⑥新道橋(しんどうばし)⇒川越街道バイパス及び浦所バイパスの下をアンダー・パス⇒新河岸川
※南畑大排水路の散歩途中で、長いくちばしのタシギが餌を漁っていた。
今日散歩していたら、東大久保の浄水場タンクの上の風見鶏に、タカが休んでいた。今年の風を感じているのだろう。
面白い組合せだったので投稿してしまいました。止まっていたタカの名前がわからないのが残念です。だれか教えてくれればうれしいです。
浦所バイパスに沿って、石井緑地公園など台地側を歩いていたらの、「ふるさとの思い出」の台石と説明板がありました。ふるさとの思い出をひとつでも残そうと、個人で立てられた看板です。開発が進むなかで、このような観点での記念碑など必要ではないかと思い、頭を下げてしまいました。その内容です。
明治44年に前耕地の耕地整理が行われ、それに伴い前の小川も田の用水として生まれ変わり、同時に洗い場の台石4台が置かれました。お母さんたちが洗濯をしながらの社交場となって、特に朝夕は大きな笑い声が聞こえていました。
子どもたちは春には魚取りをしたり、初夏にはホタルが飛び交うの見ながら夕涼みを楽しんだものです。
しかし、この用水も汚染が進み、平成の初めにコンクリートの水路に代わって台石も撤去されました。今、我が家の前に残された1台の石を見ると、当時の懐かしさが蘇って来ます。
高橋覚次
散歩していたら、イネの収穫も終り、翌年の作付けを効果的にするために、秋起こし(秋鍬込み)が行われていました。
田起こししている耕運機の周りには沢山のシラサギが集まっています。田起こしが終わると、また別の耕運機の動きを察知して、飛来し、そのまわりでシラサギの舞が始まります。面白い光景です。