南畑排水樋管あたりの荒川土手
田園風景<麦(乾田)と水田>
今年の田園風景は麦(乾田)と水田が同時に見られる。昔は2毛作で一斉に切り替わったと思われるが、近年は減反政策で水田だけの風景だった。今年は減反政策が廃止となったので、このような変化となったようだ(?)。農家の苦労はいざ知らず、麦色と水田の対比が美しい田園風景は珍しい。
今年の田園風景は麦(乾田)と水田が同時に見られる。昔は2毛作で一斉に切り替わったと思われるが、近年は減反政策で水田だけの風景だった。今年は減反政策が廃止となったので、このような変化となったようだ(?)。農家の苦労はいざ知らず、麦色と水田の対比が美しい田園風景は珍しい。
「お船山(ふねやま)」の由来
このお船山には次のような言い伝えがあります。
一説には、その昔この辺が海辺だった時に、榛名様(はるなさま)がお供のお二方(ふたかた)をお連れになって、船に乗られて遠くからこの地に来られました。船は無事に岸辺(現在の榛名神社の南端にあたる海岸線)に到着し、めざす陸地に上がることができました。岸辺に繫(つな)いでおいた船はいつしか岸から離れ、海上を漂(ただよ)い、ここに沈みました。
ちなみにお連れの神様は船頭(せんどう)をなされた鷺森大権現(さぎもりだいごんげん)様と大弁才天女(だいべんざいてんにょ)様のお二方です(現在、鷺森様は駒林、鷺森小学校西方に鎮座(ちんざ)されています。弁天(べんてん)様は明治始めまでここに鎮座されていましたが、今は榛名神社境内(けいだい)に祀(まつ)られています)。
またもう一説には一行(いっこう)の船がお船山で沈み困ったが、北方の陸地からのびていた大きな藤の木の蔓(つる)を伝って神様達が陸に上がり鎮座されたという説もあります。
南に貝塚山(かいづかやま)を拝(おが)む、地元の伝承(でんしょう)の地です。
このように、ここは昔、神様のお船が沈んだ場所と伝えられ、この地を「お船山」と言います。
平成22年11月吉日
榛名神社氏子会
昨日(5/12)散策していたら「石井坂上」の道標(みちしるべ)があった。かつて、「石井坂」の道標を設置しました・・・水谷公民館だより第423号(平成29年9月号)・・・の記事を見て、この町内会の「ふるさと愛」は素晴らしいと感じたことを思い出した。
昔は、坂道を住所のかわりの目印として字名や愛着のある坂名がついていた。現在は、その坂名の道標もなく、無意識のうちに「ふるさと喪失」をしている感がある。ご存知のように都内を歩けば坂名の道標は立っている。
【石井坂・大阪】
水子に「勝軍地蔵」と「八雲社」の石碑がある。その先が「石井坂」である。
小字名の石井からそう呼ばれたものと思われる。また、この坂は昔から急坂で荷車を牽いて上るのは大変で「大阪」とも呼ばれていた。坂を下る途中、左の高台に稲荷社があり、ここは鎌倉道と交差するところでもあった。
※坂名の説明は、ふるさと探訪部会が作成した「ふじみの坂」冊子を参照した。
「石井坂」を上って右に少し歩くと「勝軍地蔵」の石碑がある・・・このような表現で場所を表現できればと秘かに思っている。
有形文化財(建造物)
大澤家住宅・表門(長屋門)
平成5年7月7日指定
大澤家は、伝承によれば天正18年(1590)に当地に土着し、代々大久保村の名主をつとめた家柄であり、長屋門形式の表門はその象徴ともいえる建物です。
規模は、桁行10.5間、梁間2間で、壁の上部を白漆喰、下部を板張としています。屋根は、寄棟造りで、昭和10年頃の改築の際に瓦葺きにしましたが、かつては草葺きでした。門の内部は板床の「上長屋」と土間の「下長屋」に分かれています。
柱には、慶応2年(1866)の武州一揆の際に付けられたとされる刃物傷が残り、建築年代の古さを知ることができます。
平成19年(2007)の修理では、土台の修正、屋根瓦の葺替えのほか、正面の壁を柱の痕跡などをもとに改築以前の姿に復元しました。
大澤家の屋敷構えは、主屋(市指定・難波田城公園に移築)を中心に、正面に表門、東に穀蔵(市指定)が配され、かつては土蔵・味噌蔵・文庫蔵・養蚕小屋・灰小屋・離れ座敷なども建てられていました。
富士見市教育委員会
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
*個人宅ですので長屋門の中には入れませんので、ご注意ください*
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
富士見市には低地から台地、小河川に挟まれて台地から台地へと、多くの坂道がある。昔はその坂道を住所のかわりの目印としていたので、字名だけでなく愛着のある個性的な坂名がついている。さらに、その坂名に伝説などあれば、より歴史を感じながら歩くことができる。
【堂山坂】
針ヶ谷小学校から浦所バイパスに通じる坂道を「堂山坂」という。昔、坂の下まで柳瀬川が流れていたとき、大蛇の胴が流れつき、胴塚を築いて葬ったので「胴坂」と呼んだが、後に「堂山」と書くようになったという。
この話は柳瀬川流域の志木、新座、針ヶ谷あたりに伝わっている伝説で、平安時代に、この一帯を支配していた藤原長勝(おさかつ)は広大な大蛇ヶ淵(おろちがふち)を水田に変えようとしたが、大蛇の怒りに触れて工事は失敗してしまった。そこで、不動明王の助けをかりて大蛇の首を刎(は)ねることができた。胴体は針ヶ谷に流れ着き、首は下流の長勝の館(現、志木第二小付近)の裏で発見されたので、祠を建て「首弁天(かしらべんてん)」と名付けて弔ったという。
※坂名の説明は、ふるさと探訪部会が作成した「ふじみの坂」冊子を参照した。
連休の始まり(4/28)に陽気に誘われ散歩。中休みに水子貝塚公園・展示室に入った。なんと「火焔型土器」が展示されていた。思わず魅入ってしまう。水子貝塚で何故?
下に説明文がありました・・・富士見市羽沢遺跡出土の「ムササビ土器」(県指定文化財)を新潟県津南町の農と縄文体験実習館「なじょもん」の春季企画展「縄文遺物と現代美術 考古学から生まれるアート」での展示のために貸出しています。それに伴い、考古資料の相互貸借として津南町出土の「火焔型土器」を展示しています。
*富士見市HPを見ると
新潟県津南町出土の火焔型土器
展示期間:4月21日(土曜日)~6月24日(日曜日)(予定)
とありました。
鎌倉道
鎌倉道は、中世、関東及び周辺諸国の御家人が「いざ鎌倉」というときに鎌倉へ参集するために整備された道路である。
政治的・軍事的な意味での道だけでなく、伝馬道として物資の輸送流通という役割と、文化伝播という学問・宗教の発達にも大いに貢献した道である。
当時は、上道・中道・下道と呼ばれる幹線道路があり、埼玉県内には上道・中道が南北に通っていた。
富士見市内を通る鎌倉道は、上道・中道以外の県内各地に残されている伝承道の一つで、「羽根倉(はねくら)道」ともいわれる。この道は、中道より与野へ至り、ここから南下し羽根倉で荒川を渡り、志木の宗岡(むねおか)を経て市内の下南畑(なんばた)・水子(みずこ)・針ヶ谷(はりがや)を通り、所沢で上道とつながり、府中・鎌倉へ続いていたものである。この道を通った高麗経澄(こまつねずみ)が難波田(なんばた)九郎三郎を打ち破った羽根倉合戦(1351・観応2)の古戦場がこの鎌倉道沿いにある。
平成5年3月
埼玉県
富士見市
*************************
この説明板の立っている場所がスポット地として登録されていないので、近くのスポット地である「性蓮寺」で口コミした。場所は「性蓮寺」に向って右脇道をゆくと立っている。説明板のすぐそばには「お井戸」(湧水池)があり二基の弁財天が祀られている。
4/21(土)大宮から来たという元気なおじさんに木染橋付近で尋ねられた。阿蘇神社に行くのに、この新河岸川を登れば良いか?と片手に「富士見お散歩マップ(東大久保・南畑編)」もっている。中味を見せてもらうと良くできている。表紙もやさしくていい感じだ。どこで入手したの?と逆に聞くと、難波田城で貰ったそうだ。
別れた後、近くの水子貝塚公園に行って、マップをゲットする。良く見ると当アプリの「ふじみ☆ラボ」の発行だ。散策人としては大いに助かる。
※入手したマップの表紙をスキャンした。マップは8枚折りとなっていて、折った状態のサイズは約18cm(縦)*約13cm(横)の手軽な散歩サイズ。