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    あじさい街道

    あじさい街道と田園風景(2)

     前回(6/3)、麦田と水田のコントラストが面白いとの口コミでしたが、この2週間のうちに麦は収穫され、田が植えられていた。久しぶりの2毛作。
     一瞬のうちに田園風景は変わりながらも、「あじさい」は相かわず咲いている。晴れた日は大きな水田の水面に夕日が映えそうだ。
     ※ちょっと撮影アングルの違いがありますが(下の写真6/2撮影、上の写真6/14撮影)、このように田園風景が変わりました。

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    南畑排水機場

    路傍の草木<合歓の花(ねむのはな)>

     ネムノ花・真っ盛り! 

     南畑排水機場の裏の広場(荒川の土手の下)に4本のネムノ木の花が満開である。路傍から見ることができる。
     合歓の花は、万葉集や松尾芭蕉、与謝蕪村の句にもありますが、花言葉は「歓喜」。淡紅の刷毛のような美しい花を開き、夜になると葉を閉じて眠ったようになるので、この名があるそうです。
    ※写真は、6/9(土)午前中の撮影。

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    針ヶ谷氷川神社

    針ヶ谷氷川神社に隣接する「針ヶ谷中央公園」の記念碑の内容を写す

    碑文
      この地は、武蔵野台地を流れる棚瀬川の左岸、標高約20mの台地上に立地する。富士見市が海であった縄文時代には貝塚、また、弥生時代には谷の湧き水をめぐるように大きな集落が形成され稲作も行われいた。原始・古代より人々が生活していた針ヶ谷地区は近世には畑作を中心とした村としてこれまで営まれてきた。
     本市最初の区画整理事業であるみずほ台土地区画整理事業地区の一部であったが時期尚早などの意見により、この針ヶ谷地区を外した事業として決定した。しかし、地元の地権者による、健全な街づくりへの熱意は日増しに高まり区画整理事業の気運が熟し、説明会、関係機関との協議を重ねるとともに準備委員会を経て、昭和53年11月14日に埼玉県知事の認可を得、「針ヶ谷特定土地区画整理組合」が誕生した。
     施行面積42・5ha、総事業費60億3千7百万円の巨費を投じ、都市計画道路、区画道路、公園、上下水道等を整備し、地区内に小学校を誘致するとともに、安全で快適な環境つくりのため、「地区計画」を導入して、良好かつうるおいのある居住環境に努め、昭和61年6月には、建設大臣賞を受賞した。
     設立から16年有余の歳月にわたる難事業を一致協力し、平成7年1月に換地処分をするとともに、事業の目的である公共施設の整備改善と宅地の利用増進を達成した。組合員の絶大なる協力と相互信頼及び国、県、市当局並びに関係各位の多大な協力と適切な指導、援助のもとに事業の終結をみることができたことに対し、深く感謝する次第である。本事業が市の将来の発展に希望を託し、ここに竣功記念碑を建立し永く後世に伝えるものである。
         平成7年3月吉日
         富士見市針ヶ谷特定土地区画整理組合

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    *針ヶ谷中央公園はスポット地に登録されていなかったので、隣接地での口コミです*
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    あじさい街道

    あじさい街道と田園風景

     「あじさい」にとっては適地とは思えない(?)と散策人は思っているが、あじさい街道はおよそ1kmある。今年は麦田と水田の両方の背景で田園風景の「あじさい」が楽しめる。麦が収穫される前のシトシト雨の時がお勧めである。写真は6/2(土)撮影、この日は晴れ。

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    岡坂橋

    路傍の草木<弱草藤(ナヨクサフジ)>

     岡坂橋での口コミですが、市域の新河岸川の土手で繁茂している。
     5年~10年ぐらい前に散歩でチョット見かけたような記憶があるが、今では至るところで出会う。
     藤(市の花)に花も葉も似ているので、名前を知りたくて図鑑を調べた。
     木ではないのでクサフジ(草藤)という名前のようだ。その仲間の弱草藤(ナヨクサフジ)で、「ヨーロッパ原産の帰化植物。飼料用や緑肥用として導入され、あまり利用されないまま野生化した、多年草(まめ科そらまめ属)」とある。
     和名はナヨナヨとしたクサフジなれど、どうしてどうして草の勢いは強い。逆に在来種のクサフジの実物を見かけない。

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    南畑排水樋管あたりの荒川土手

    田園風景<麦(乾田)と水田>

     今年の田園風景は麦(乾田)と水田が同時に見られる。昔は2毛作で一斉に切り替わったと思われるが、近年は減反政策で水田だけの風景だった。今年は減反政策が廃止となったので、このような変化となったようだ(?)。農家の苦労はいざ知らず、麦色と水田の対比が美しい田園風景は珍しい。

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    お舟山

    「お船山の由来」の説明板の内容を写す

    「お船山(ふねやま)」の由来

     このお船山には次のような言い伝えがあります。
     一説には、その昔この辺が海辺だった時に、榛名様(はるなさま)がお供のお二方(ふたかた)をお連れになって、船に乗られて遠くからこの地に来られました。船は無事に岸辺(現在の榛名神社の南端にあたる海岸線)に到着し、めざす陸地に上がることができました。岸辺に繫(つな)いでおいた船はいつしか岸から離れ、海上を漂(ただよ)い、ここに沈みました。
     ちなみにお連れの神様は船頭(せんどう)をなされた鷺森大権現(さぎもりだいごんげん)様と大弁才天女(だいべんざいてんにょ)様のお二方です(現在、鷺森様は駒林、鷺森小学校西方に鎮座(ちんざ)されています。弁天(べんてん)様は明治始めまでここに鎮座されていましたが、今は榛名神社境内(けいだい)に祀(まつ)られています)。
     またもう一説には一行(いっこう)の船がお船山で沈み困ったが、北方の陸地からのびていた大きな藤の木の蔓(つる)を伝って神様達が陸に上がり鎮座されたという説もあります。
     南に貝塚山(かいづかやま)を拝(おが)む、地元の伝承(でんしょう)の地です。
     このように、ここは昔、神様のお船が沈んだ場所と伝えられ、この地を「お船山」と言います。
               平成22年11月吉日
                     榛名神社氏子会

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    勝軍地蔵

    ふじみの坂・・・石井坂・大阪

     昨日(5/12)散策していたら「石井坂上」の道標(みちしるべ)があった。かつて、「石井坂」の道標を設置しました・・・水谷公民館だより第423号(平成29年9月号)・・・の記事を見て、この町内会の「ふるさと愛」は素晴らしいと感じたことを思い出した。
     昔は、坂道を住所のかわりの目印として字名や愛着のある坂名がついていた。現在は、その坂名の道標もなく、無意識のうちに「ふるさと喪失」をしている感がある。ご存知のように都内を歩けば坂名の道標は立っている。

    【石井坂・大阪】
     水子に「勝軍地蔵」と「八雲社」の石碑がある。その先が「石井坂」である。
    小字名の石井からそう呼ばれたものと思われる。また、この坂は昔から急坂で荷車を牽いて上るのは大変で「大阪」とも呼ばれていた。坂を下る途中、左の高台に稲荷社があり、ここは鎌倉道と交差するところでもあった。

    ※坂名の説明は、ふるさと探訪部会が作成した「ふじみの坂」冊子を参照した。
    「石井坂」を上って右に少し歩くと「勝軍地蔵」の石碑がある・・・このような表現で場所を表現できればと秘かに思っている。

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    大澤家長屋門

    富士見市の指定有形文化財・建造物の説明版の内容を写す

    有形文化財(建造物)
    大澤家住宅・表門(長屋門)
               平成5年7月7日指定
     大澤家は、伝承によれば天正18年(1590)に当地に土着し、代々大久保村の名主をつとめた家柄であり、長屋門形式の表門はその象徴ともいえる建物です。
     規模は、桁行10.5間、梁間2間で、壁の上部を白漆喰、下部を板張としています。屋根は、寄棟造りで、昭和10年頃の改築の際に瓦葺きにしましたが、かつては草葺きでした。門の内部は板床の「上長屋」と土間の「下長屋」に分かれています。
     柱には、慶応2年(1866)の武州一揆の際に付けられたとされる刃物傷が残り、建築年代の古さを知ることができます。
     平成19年(2007)の修理では、土台の修正、屋根瓦の葺替えのほか、正面の壁を柱の痕跡などをもとに改築以前の姿に復元しました。
     大澤家の屋敷構えは、主屋(市指定・難波田城公園に移築)を中心に、正面に表門、東に穀蔵(市指定)が配され、かつては土蔵・味噌蔵・文庫蔵・養蚕小屋・灰小屋・離れ座敷なども建てられていました。
               富士見市教育委員会
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    *個人宅ですので長屋門の中には入れませんので、ご注意ください*
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    南通遺跡の復元住居(弥生時代)

    ふじみの坂・・・堂山坂

     富士見市には低地から台地、小河川に挟まれて台地から台地へと、多くの坂道がある。昔はその坂道を住所のかわりの目印としていたので、字名だけでなく愛着のある個性的な坂名がついている。さらに、その坂名に伝説などあれば、より歴史を感じながら歩くことができる。

    【堂山坂】
     針ヶ谷小学校から浦所バイパスに通じる坂道を「堂山坂」という。昔、坂の下まで柳瀬川が流れていたとき、大蛇の胴が流れつき、胴塚を築いて葬ったので「胴坂」と呼んだが、後に「堂山」と書くようになったという。
     この話は柳瀬川流域の志木、新座、針ヶ谷あたりに伝わっている伝説で、平安時代に、この一帯を支配していた藤原長勝(おさかつ)は広大な大蛇ヶ淵(おろちがふち)を水田に変えようとしたが、大蛇の怒りに触れて工事は失敗してしまった。そこで、不動明王の助けをかりて大蛇の首を刎(は)ねることができた。胴体は針ヶ谷に流れ着き、首は下流の長勝の館(現、志木第二小付近)の裏で発見されたので、祠を建て「首弁天(かしらべんてん)」と名付けて弔ったという。

    ※坂名の説明は、ふるさと探訪部会が作成した「ふじみの坂」冊子を参照した。

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