一寸太助ているつもり さんの口コミ

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    瑠璃光寺

    富士見市の記念物(天然記念物)のカヤの説明板の内容を写す。

    記念物
    カヤ
    平成4年2月17日指定

    カヤ(榧)は常緑性の針葉樹です。果実は長さ2~3cm程の楕円球で、昔は種皮を焼いて食べたり、油をとったりしました。材質はきめこまかで節が無く、碁盤や将棋盤などに愛用されます。
    この瑠璃光寺のカヤは市内やその周辺でも最大のものです。

    樹  高  約23メートル
    樹  径  1.5メートル
    推定樹齢 500年

    富士見市教育委員会

    ***********************************
    ※平成27年に参拝者の安全面への配慮から、幹の先端と枝の一部が伐採されたので、現在の「樹高」は説明板と違う。
    写真は伐採前の、2013(平成25)年5月に撮影したカヤ。「樹高」は説明板とほぼ同じと思う。

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    上鶴馬氷川神社(諏訪)

    案内板の内容を写す。8月27・28日 諏訪大祭と共催とある。

    氷川神社
    富士見市諏訪一丁目 鎮座
    一、祭神 須佐之男命(素戔嗚命)スサノオノミコト
    二、信仰 五穀豊穣、家内安全、商売繫昌、交通安全、学業振興、等
    三、由緒 当神社は武蔵野台地の東端に位し周囲には上古の住居址等多く存在、古代人の生活場であった処に建立されその創立年度は不詳であるが徳川中期、正徳元年に再建に棟札が現存している。又、徳川時代の検知水帳に諏訪神社と共に広い境内地が除地として記載されているのでその創立は古くこの地方(旧鶴馬)の鎮守(氏神)として地域の住民の信仰は厚い。 又境内に弁天池の湧水がありそれに通ずる「雲居の滝」の涼気をさそう緑の散歩道がある。
    四、祭典日 1月1日 元旦祭
            2月17日 祈年祭
            5月1日 例大祭
            8月27、8日 諏訪大祭と共催
            10月15日 秋の例祭
            11月 中 七五三祭
            11月23日 新穀感謝祭
    五、境内社 稲荷神社(祭神 宇迦之御魂神)
             三月初午祭
            神明神社(祭神 天照大神)
            北野天神社(祭神 菅原道真公)
            雷電神社(祭神 鳴雷神)
            厳島神社(祭神 市杵島比売之命)

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    阿蘇神社

    阿蘇神社の説明板の内容を読み写す。

    阿蘇神社(由来)
                     富士見市東大久保83番地鎮座
    一、祭神  阿蘇比女之命(アソヒメノミコト)
    二、信仰  五穀豊穣・家内安全・商売繁昌・学業成就・交通安全・諸厄祓い。
    三、由緒  創立年代不詳なれど旧来一村の鎮守なり、明治5年村社に列せらる。
     「阿蘇比女之命」は、神武天皇の皇子、神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の第6子、健磐龍命(タケイワタツノミコト)が阿蘇の地を開拓し、その土地の阿蘇都媛命(アソツヒメノミコト)(阿蘇比女之命)を娶って住んだ。その後この命の子、速瓶玉命(ハヤミカタマノミコト)が祖神として祀ったのが阿蘇神の起りである。従って、開拓祖主、農耕神であった。
     「日本紀略(キリャク)・弘仁14年(823)十月の条・従四位下五等、健磐龍命に、封20戸を充て奉る・この神、災旱(エンカン)の時祈れば即ち雨を降らし国を護り民を救う」と記される。「貞観元年(859)神階累進して正二位に達した。阿蘇比女之神も同年17年、従三位に進んだ」。
     江戸末期、斉藤月岑刊行(ゲツシン 文化1年~明治11年)の「江戸名所図絵」の記載に同社の棟札文が見られる。 「氷正元甲子年(1504)奉造立阿蘇大明神本殿成就所 七月大吉祥日。別當本山修験萬蔵院。」同棟札後面 「天下太平国土安全氏子繁。比下文字讀み得べからず」。
    四、合祭神 素戔嗚尊スサノオノミコト・菅原道真公・大日孁尊オオヒルメノミコト・宇迦之御魂命カカノミタマノミコト・市杵島媛命イチキシマヒメノミコト
    五、祭典   1月1日 元旦祭
            2月23日 祈年祭(豊年祈願祭)
            4月19日 春大祭(春祈祷)
            7月14、15日 八坂神社祭(天王様)
            10月19日 秋例大祭(お日待)
            11月29日 新嘗祭(新穀感謝祭)
    六、境内社 八坂社 素戔嗚尊スサノオノミコト
            山神社 大山祇命オオヤマツミノミコト
            子安社 木花開耶姫命コノハナサクヤヒメノミコト
            疱瘡社 大己貴命オオナムチノミコト・少名彦命スクナヒコナノミコト
            稲荷社 宇迦之御魂命ウカノミタマノミコト
            琴平社 崇徳天皇スウトクテンノウ
    社務所新築記念
    平成21年1月吉日 阿蘇神社氏子会

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    諏訪神社

    諏訪神社の説明板の内容を読み写す。7月・8月祭典が多い。

    諏訪神社
                     富士見市諏訪二丁目鎮座
    一.祭神  建御名方之神 タケミナカタノカミ
    二.信仰  悪疫防除、諸厄払い、家内安全、産業振興、交通安全、健康増進
    三.由緒  当神社は隣接の氷川神社と同様古代人の住居址の中に建立された神社で創立年度は不詳である。只元禄12年改築の棟札は現存しているが御神木の大欅などから推察すると遙か古い時代の創立と思われる。
    当社は昔時より特に悪病除、諸厄防除の守り神として信仰が厚く氏子の外に東京都下の東久留米、清瀬市内を始め、所沢市、新座市、上福岡市、富士見市内より11ヶ所の敬神講社を有し、毎年8月28日の例大祭には、その代表者の参拝がある。当日は徳川時代から継続されている渡戸地区より奉納の獅子舞を始め、氏子各地区より奉納物が飾ざられ近郷近在より参拝される善男、善女は万余を数える県有数の大祭が執行される。
    四.祭典   1月1日 元旦祭
            2月節分日 節分祭
            7月14、15日 八雲神社祭
            7月28日 夏越大祓い祭
            8月27、28日 諏訪大祭
            随時 初宮参り 厄祓い 諸祷 神前結婚式
    五.境内社 八雲神社(祭神 須佐之男命 スサノオノミコト)
            八幡神社(祭神 誉田別之命 ホンダワケノミコト)

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    総合揚水機場

    記念碑文を読み、縦書きを横書きにし、漢数字を算用数字にしてみた。

    県営ほ場整備事業竣工記念碑
    埼玉県知事 土屋義彦 謹書
    碑文
     上南畑地区は、東に荒川、西に新河岸川の一級河川に挟まれた低平な水田地帯で、先人たちの英知と労苦により、南畑第二土地改良組合を組織して新河岸川に用水源を求め、昭和19年から20年に耕地整理事業を実施し、その後、昭和26年には、交換分合を行いほ場の整備と農業経営の合理化を進め、地域農業の改善と発展に努めてきた。
     しかし、日本経済の発展と共に近隣市町村を含めた都市化による影響で、昭和40年頃より著しく水質汚染が進み、やむなく、用水源を地下水へと切り替えるため、計画的に順次6ヶ所の井戸を掘り、用水確保に努め稲作を続けてきた。
     その後、地盤沈下の進行に伴う影響を受け、用排水路が機能不能となったほか、井戸の老朽化による用水不足が生じてきた。
     折しも、昭和58年びん沼川改修による南畑排水機場を含む流域の整備計画が建設省から発表され、流域農業に必要な用水量が確保される見通しがつき、計画地区に入る砂原地区地主会と協議し、既得水利権を有効に行使する事で合意することができた。
     同年、組合の定期総会において、土地改良推進協議会を発足させ、用水問題、土地改良事業の多岐にわたる検討を重ねた結果、びん沼川からの取水については、関係行政機関の指導のもとに協議し、昭和62年に既得4組合の理解をいただき同意が得られた。
     さらに、土地改良事業に関しては、組合員の21世紀を展望した深い洞察から、県、市の指導を得て、ほ場整備事業に取り組む事を推進協議会で決定し、組織をほ場整備事業推進委員会と改め、幾多の困難を克服しつつ、県の調査と平行して事業推進に努め組合員の同意を得、平成2年11月20日県営ほ場整備事業の申請に至り、平成3年4月11日農林水産大臣の採択となり、同年11月11日県知事より土地改良区設立の認可を受け、同年12月6日南畑土地改良区が設立された。
     右の経緯から、事業区域73haの「低コスト化水田農業大区画ほ場整備事業」と併せて「21世紀型水田農業モデルほ場整備促進事業」が平成3年より着手し、8年余の歳月と11億3千万余円の巨費を投じ、有効幅6メートル農道、排水路護岸、揚水機場及び給水器機施設、パイプライン、暗渠排水等の農用地造成工事が行なわれ、農業経営の安定向上と地域の大きな礎となる21世紀を目指した大区画ほ場整備事業が立派に完成した。
     よって、ここに関係各位の労苦と御努力、組合員の御協力に深く感謝の念を捧げ、この歴史的事業の竣功を記念して碑文を刻み永く後世に伝えるためこの碑を建立する。
         平成12年3月吉日
            南畑土地改良区
               理事長 上野武男 撰文

    (追加)口コミ者の注釈
    圃場整備(ほじょうせいび)とは、耕地区画の整備、用排水路の整備、土層改良、農道の整備、耕地の集団化を実施することによって労働生産性の向上を図り、農村の環境条件を整備すること。農林水産省や都道府県の公共事業として行われる。

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    蛭沼陸田開拓碑

    記念碑文を読み、縦書きを横書きにし、漢数字を算用数字にしてみた。

    蛭沼陸田開拓のあゆみ

     この地は旧荒川の堤外地で、外野(そとの)と呼ばれている。江戸時代に耕地として開発され、もっぱら畑作地として利用されていたらしい。昭和初期には、その約半分は桑園であった。第二次大戦後、食糧増産の気運とともに埼玉県の指導によって昭和24年に荒川第一地区開拓事業がはじまり、耕地の区画整理が行われた。同時に、水稲を作付けしようという農家が集まり、陸田化計画がスタートした。新井房吉氏・新井栄一氏・大棹俊吉氏・斉藤精次氏の四氏が発起人となり、翌年「蛭沼陸田組合」が誕生したのである。その概要は次の通りである。
       ・水田面積 約5町5反歩
       ・組合員数 28名
       ・施   設 10馬力モーター口径5インチ渦巻ポンプ
     その後、昭和28年に拡張され、耕作者のほぼ全世帯が加入する現在の形となった。同時に、「蛭沼第二揚水組合」と改称した。
       ・水田面積 約11町5反歩
       ・組合員数 53名
       ・施   設 20馬力モーター口径8インチ渦巻ポンプ
     これにより水稲と麦の二毛作が定着し、所得が倍増することになり、農家経営の安定に多大な貢献をすることになった。しかし、このような努力の賜物である蛭沼の耕地は、その後大きな歴史的な変遷を辿ることになった。昭和40年代には、国策として減反政策が全国各地で進められ、この蛭沼も大きな影響を受けた。さらに昭和47年には、県立青年の家及び市立老人福祉センター建設のために揚水機場を移転した。昭和50年代に入ってびん沼調節池治水対策事業が始まったことにより、この祖先より受け継いできた土地が買収されることになった。土地を手離すことは、農民にとって大変つらいことである。しかし、人々を洪水から護る為の大切な事業に、関係地主はびん沼調節池地主会(会長新井弘氏)を結成し、最大限の協力をした。平成6年にその用地買収が終わり、蛭沼は耕地としての使命を終えた。
     この地に、トンボや蝶が飛び交う公園の完成を心から期待して、蛭沼第二揚水組合の約半世紀にわたる歩みを記念碑に記し、ここに本組合は解散する。

    平成8年8月吉日            撰文 蛭沼第二揚水組合

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    旧新河岸川開拓記念碑

    記念碑文を読み、縦書きを横書きにし、漢数字を算用数字にしてみた。

    旧新河岸川開拓記念

    土屋亮晃 謹書
     旧新河岸川の歴史は南畑の歴史につながる。 かつての新河岸川は蛇行し、水量も多く 江戸時代より川越から浅草花川戸に至る重要な舟路であった。 川辺には伊佐島 蛇木 本河岸 鶉 の各河岸場があり、近村の商品輸送で栄えた。 旧河には木の太鼓橋があり、橋の両側には茶店などの商家が軒をつらねていた。 この南畑橋は、ちょうど上り下りの舟が行きかう地点であり また舟溜の場でもあった。 舟の灯が川面を照らし、夕闇を蛍が飛びかい、船頭が大声で言葉をかわし舟唄も聞こえて、風情をそえていた。
     一方、度々の洪水災害を蒙っていた為 南畑村長をはじめ関係町村長によって河川改修の請願が県知事に出されて採択され 大正8年に改修計画が本決まりとなった。 しかし改修の結果水深が浅くなり舟運が困難のため昭和9年に通船停止となった。 また、南畑橋も大正14年に新川に架替えられた。
     大正12年に行われた当地の新河岸川改修によって廃川となった敷地を活用して、国の食糧増産の要望に応える為 昭和26年に県農地開拓課により新河岸川第一地区開拓計画が立案された。 この開拓事業は既耕地を併買収し 国有廃川敷を加え、区画を整理して増反売渡をするものであった。
     その後開拓法の廃止 農地法の改正等諸般の情勢により、開拓計画が思うように進まないうちに二十有余年を経過した。
     かねてより、新河岸川開拓事業促進委員会を結成し、開拓促進の陳情をしていたところ 昭和52年に県農政課並びに県土地改良連合会の指導により、新河岸川廃川敷土地改良区を結成し同年9月に認可された。 ただちに確定測量を行ない登記を済ませ、すべての事業を完了した。 そして昭和54年3月24日に改良区を解散した。 ここに開拓事業の感性を記念し旧川のほとりに記念碑を建立する。
     よどみなく流れる新河岸川とともに、この碑が当地の産業開発の歴史を後世に伝えてくれることを念願する。
            勲六等 松澤卯三郎 撰文

    新河岸川開拓事業
      農林水産省有地面積 87,336 ㎡
      建設省有地面積 63,294 ㎡
      埼玉県有地面積 3,095 ㎡
      民有地面積 1,147 ㎡
      合計面積 154,872 ㎡

    昭和54年3月吉日 建立

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