最新口コミ
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諏訪神社
諏訪神社の説明板の内容を読み写す。7月・8月祭典が多い。
諏訪神社
富士見市諏訪二丁目鎮座
一.祭神 建御名方之神 タケミナカタノカミ
二.信仰 悪疫防除、諸厄払い、家内安全、産業振興、交通安全、健康増進
三.由緒 当神社は隣接の氷川神社と同様古代人の住居址の中に建立された神社で創立年度は不詳である。只元禄12年改築の棟札は現存しているが御神木の大欅などから推察すると遙か古い時代の創立と思われる。
当社は昔時より特に悪病除、諸厄防除の守り神として信仰が厚く氏子の外に東京都下の東久留米、清瀬市内を始め、所沢市、新座市、上福岡市、富士見市内より11ヶ所の敬神講社を有し、毎年8月28日の例大祭には、その代表者の参拝がある。当日は徳川時代から継続されている渡戸地区より奉納の獅子舞を始め、氏子各地区より奉納物が飾ざられ近郷近在より参拝される善男、善女は万余を数える県有数の大祭が執行される。
四.祭典 1月1日 元旦祭
2月節分日 節分祭
7月14、15日 八雲神社祭
7月28日 夏越大祓い祭
8月27、28日 諏訪大祭
随時 初宮参り 厄祓い 諸祷 神前結婚式
五.境内社 八雲神社(祭神 須佐之男命 スサノオノミコト)
八幡神社(祭神 誉田別之命 ホンダワケノミコト) -
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南畑橋
オナガと初めての出会い!
南畑橋の近く左岸側を散歩していたら、なんと表現して良いか「グウェーイ、グウェーイ」(?)というような、あまり気持ち良くない鳴き声が聞こえた。なんだろうと探すと電線に鳥がいた。その鳥の鳴き声のようだ。近くの木でも鳴いている。
その写真である。黒い帽子をかぶっていて、翼は短かく幅広で、長い尾が目立つ。姿・形はスマートである。
帰って調べて見ると、オナガである。この姿でこんな声で鳴くとは信じられないが、分類上、スズメ目カラス科でカラスの仲間のようだ。かわいくない鳴き声は仕方ないか、残念。
かつて、郷土検定の問題集で、「市の鳥」の候補となっていたことを思い出した。この鳴き声が「市の鳥」になれなかった理由かも・・・ -
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総合揚水機場
記念碑文を読み、縦書きを横書きにし、漢数字を算用数字にしてみた。
県営ほ場整備事業竣工記念碑
埼玉県知事 土屋義彦 謹書
碑文
上南畑地区は、東に荒川、西に新河岸川の一級河川に挟まれた低平な水田地帯で、先人たちの英知と労苦により、南畑第二土地改良組合を組織して新河岸川に用水源を求め、昭和19年から20年に耕地整理事業を実施し、その後、昭和26年には、交換分合を行いほ場の整備と農業経営の合理化を進め、地域農業の改善と発展に努めてきた。
しかし、日本経済の発展と共に近隣市町村を含めた都市化による影響で、昭和40年頃より著しく水質汚染が進み、やむなく、用水源を地下水へと切り替えるため、計画的に順次6ヶ所の井戸を掘り、用水確保に努め稲作を続けてきた。
その後、地盤沈下の進行に伴う影響を受け、用排水路が機能不能となったほか、井戸の老朽化による用水不足が生じてきた。
折しも、昭和58年びん沼川改修による南畑排水機場を含む流域の整備計画が建設省から発表され、流域農業に必要な用水量が確保される見通しがつき、計画地区に入る砂原地区地主会と協議し、既得水利権を有効に行使する事で合意することができた。
同年、組合の定期総会において、土地改良推進協議会を発足させ、用水問題、土地改良事業の多岐にわたる検討を重ねた結果、びん沼川からの取水については、関係行政機関の指導のもとに協議し、昭和62年に既得4組合の理解をいただき同意が得られた。
さらに、土地改良事業に関しては、組合員の21世紀を展望した深い洞察から、県、市の指導を得て、ほ場整備事業に取り組む事を推進協議会で決定し、組織をほ場整備事業推進委員会と改め、幾多の困難を克服しつつ、県の調査と平行して事業推進に努め組合員の同意を得、平成2年11月20日県営ほ場整備事業の申請に至り、平成3年4月11日農林水産大臣の採択となり、同年11月11日県知事より土地改良区設立の認可を受け、同年12月6日南畑土地改良区が設立された。
右の経緯から、事業区域73haの「低コスト化水田農業大区画ほ場整備事業」と併せて「21世紀型水田農業モデルほ場整備促進事業」が平成3年より着手し、8年余の歳月と11億3千万余円の巨費を投じ、有効幅6メートル農道、排水路護岸、揚水機場及び給水器機施設、パイプライン、暗渠排水等の農用地造成工事が行なわれ、農業経営の安定向上と地域の大きな礎となる21世紀を目指した大区画ほ場整備事業が立派に完成した。
よって、ここに関係各位の労苦と御努力、組合員の御協力に深く感謝の念を捧げ、この歴史的事業の竣功を記念して碑文を刻み永く後世に伝えるためこの碑を建立する。
平成12年3月吉日
南畑土地改良区
理事長 上野武男 撰文
(追加)口コミ者の注釈
圃場整備(ほじょうせいび)とは、耕地区画の整備、用排水路の整備、土層改良、農道の整備、耕地の集団化を実施することによって労働生産性の向上を図り、農村の環境条件を整備すること。農林水産省や都道府県の公共事業として行われる。 -
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榛名神社
榛名神社の神紋は「さがり藤」
藤の花をデザイン化した「藤紋」は、インターネットで検索すると・・・
藤は長寿で繁殖力が強く、めでたい植物として、その「藤の花」をデザイン化したのもの。中臣鎌足が大和に藤原の里を下賜されてから、のちのちまで栄えた藤原氏にあやかって、多く使用するようになったという。
市内の神社・寺院で「藤紋」が見られるのは、散策人が知り得ているのは、榛名神社と性蓮寺。だからといって藤原氏と関係があったと言っているわけではありません。調べても、聞いてもいません。
市の花「ふじ」をホームページでみると・・・
優雅さと気品をそなえており、ひとつひとつの花が集まって咲く様子が、人と人との語り合いや団結を感じさせ、富士見市民がひとつひとつの花のように思われます。
と書いてある。
「ひとつの対象物」を、いろいろな観点で、良い点を見出していることが、面白い。 -
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三井ショッピングパーク ららぽーと富士見
ご存知でしょうか?フジミテラス( ´ ▽ ` )
是非ともお買い物ついでに覗いて頂きたい3Fにあるテラスです。
天候と運が良ければ、富士見市の名付けの親( *^艸^)
Mt.富士を拝めますよ(*˘︶˘*).。.:*♡ -
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蛭沼陸田開拓碑
記念碑文を読み、縦書きを横書きにし、漢数字を算用数字にしてみた。
蛭沼陸田開拓のあゆみ
この地は旧荒川の堤外地で、外野(そとの)と呼ばれている。江戸時代に耕地として開発され、もっぱら畑作地として利用されていたらしい。昭和初期には、その約半分は桑園であった。第二次大戦後、食糧増産の気運とともに埼玉県の指導によって昭和24年に荒川第一地区開拓事業がはじまり、耕地の区画整理が行われた。同時に、水稲を作付けしようという農家が集まり、陸田化計画がスタートした。新井房吉氏・新井栄一氏・大棹俊吉氏・斉藤精次氏の四氏が発起人となり、翌年「蛭沼陸田組合」が誕生したのである。その概要は次の通りである。
・水田面積 約5町5反歩
・組合員数 28名
・施 設 10馬力モーター口径5インチ渦巻ポンプ
その後、昭和28年に拡張され、耕作者のほぼ全世帯が加入する現在の形となった。同時に、「蛭沼第二揚水組合」と改称した。
・水田面積 約11町5反歩
・組合員数 53名
・施 設 20馬力モーター口径8インチ渦巻ポンプ
これにより水稲と麦の二毛作が定着し、所得が倍増することになり、農家経営の安定に多大な貢献をすることになった。しかし、このような努力の賜物である蛭沼の耕地は、その後大きな歴史的な変遷を辿ることになった。昭和40年代には、国策として減反政策が全国各地で進められ、この蛭沼も大きな影響を受けた。さらに昭和47年には、県立青年の家及び市立老人福祉センター建設のために揚水機場を移転した。昭和50年代に入ってびん沼調節池治水対策事業が始まったことにより、この祖先より受け継いできた土地が買収されることになった。土地を手離すことは、農民にとって大変つらいことである。しかし、人々を洪水から護る為の大切な事業に、関係地主はびん沼調節池地主会(会長新井弘氏)を結成し、最大限の協力をした。平成6年にその用地買収が終わり、蛭沼は耕地としての使命を終えた。
この地に、トンボや蝶が飛び交う公園の完成を心から期待して、蛭沼第二揚水組合の約半世紀にわたる歩みを記念碑に記し、ここに本組合は解散する。
平成8年8月吉日 撰文 蛭沼第二揚水組合

