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    榛名神社

    榛名神社の神紋は「さがり藤」

     藤の花をデザイン化した「藤紋」は、インターネットで検索すると・・・
    藤は長寿で繁殖力が強く、めでたい植物として、その「藤の花」をデザイン化したのもの。中臣鎌足が大和に藤原の里を下賜されてから、のちのちまで栄えた藤原氏にあやかって、多く使用するようになったという。
     市内の神社・寺院で「藤紋」が見られるのは、散策人が知り得ているのは、榛名神社と性蓮寺。だからといって藤原氏と関係があったと言っているわけではありません。調べても、聞いてもいません。
     市の花「ふじ」をホームページでみると・・・
    優雅さと気品をそなえており、ひとつひとつの花が集まって咲く様子が、人と人との語り合いや団結を感じさせ、富士見市民がひとつひとつの花のように思われます。
    と書いてある。
     「ひとつの対象物」を、いろいろな観点で、良い点を見出していることが、面白い。

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    三井ショッピングパーク ららぽーと富士見

    ご存知でしょうか?フジミテラス( ´ ▽ ` )

    是非ともお買い物ついでに覗いて頂きたい3Fにあるテラスです。
    天候と運が良ければ、富士見市の名付けの親( *^艸^)
    Mt.富士を拝めますよ(*˘︶˘*).。.:*♡ 

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    文化の杜公園

    市の花『ふじ』は市のマメ(実)、「ふじみ」でもあるか?

     散策していたら、大層な豆を垂らした藤棚が目に入った。『ふじ』はマメ目・マメ科だから、マメがなるのは当たり前のこと。チョット忘れていたような気がする。
     市ホームページなどでは、市の花としては表現しているが、植物としの『ふじ』をあまり表現していない・・・
     子供フェスティバル時には花が咲き
     今はマメとなり
     9月頃にはマメが弾けるはずだ。
    その藤の実が弾ける初速を計算したのは物理学者で随筆家の寺田虎彦。インターネット検索で思い出すことが出来た。

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    蛭沼陸田開拓碑

    記念碑文を読み、縦書きを横書きにし、漢数字を算用数字にしてみた。

    蛭沼陸田開拓のあゆみ

     この地は旧荒川の堤外地で、外野(そとの)と呼ばれている。江戸時代に耕地として開発され、もっぱら畑作地として利用されていたらしい。昭和初期には、その約半分は桑園であった。第二次大戦後、食糧増産の気運とともに埼玉県の指導によって昭和24年に荒川第一地区開拓事業がはじまり、耕地の区画整理が行われた。同時に、水稲を作付けしようという農家が集まり、陸田化計画がスタートした。新井房吉氏・新井栄一氏・大棹俊吉氏・斉藤精次氏の四氏が発起人となり、翌年「蛭沼陸田組合」が誕生したのである。その概要は次の通りである。
       ・水田面積 約5町5反歩
       ・組合員数 28名
       ・施   設 10馬力モーター口径5インチ渦巻ポンプ
     その後、昭和28年に拡張され、耕作者のほぼ全世帯が加入する現在の形となった。同時に、「蛭沼第二揚水組合」と改称した。
       ・水田面積 約11町5反歩
       ・組合員数 53名
       ・施   設 20馬力モーター口径8インチ渦巻ポンプ
     これにより水稲と麦の二毛作が定着し、所得が倍増することになり、農家経営の安定に多大な貢献をすることになった。しかし、このような努力の賜物である蛭沼の耕地は、その後大きな歴史的な変遷を辿ることになった。昭和40年代には、国策として減反政策が全国各地で進められ、この蛭沼も大きな影響を受けた。さらに昭和47年には、県立青年の家及び市立老人福祉センター建設のために揚水機場を移転した。昭和50年代に入ってびん沼調節池治水対策事業が始まったことにより、この祖先より受け継いできた土地が買収されることになった。土地を手離すことは、農民にとって大変つらいことである。しかし、人々を洪水から護る為の大切な事業に、関係地主はびん沼調節池地主会(会長新井弘氏)を結成し、最大限の協力をした。平成6年にその用地買収が終わり、蛭沼は耕地としての使命を終えた。
     この地に、トンボや蝶が飛び交う公園の完成を心から期待して、蛭沼第二揚水組合の約半世紀にわたる歩みを記念碑に記し、ここに本組合は解散する。

    平成8年8月吉日            撰文 蛭沼第二揚水組合

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    富士見江川の起点碑

    新河岸川・富士見江川の合流地点の中州

     古地図の新河岸川・富士見江川をイメージしながら改修された川沿いを良く散策する。暖かくなってくると1週間で季節の移り変わりを感じることが出来るからだ。
     昨年の南畑公民館だよりNo473に『改修で直線化した新河岸川が蛇行しはじめている』という内容のカラムが載っていた。かつては時々浚渫船が川底をさらったり、藻を刈ったりし、川の流れを管理していたという。
     それ以来、新河岸川の蛇行具合を見るのも散策対象のひとつとなった。写真は新河岸川・富士見江川の合流場所の中洲である(上 富士見江川左岸起点から、下 右岸起点から)。

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    難波田城公園・資料館

    「行田蓮」

    間もなく見頃を迎えますね😄

    今日はまだ、蕾が多かったのですが

    6月10日(土)~7月17日(祝)の土・日・祝日は、午前6時開園ですね。

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    上鶴馬氷川神社(諏訪)

    かわいいホタルたち

    神社に入って、右の段を下ってホタルがいる場所に着くまで、肝試しに近い感覚でした。
    それだけに、ホタルの光を見つけた時にはどれだけ癒されたことか!
    ホタルが飛び交う、という程ではないけど、ホタル、いるんだなあ~って感じに酔いしれました!

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    南畑八幡神社

    難波田城公園まつり(6/4)の武者行列の出陣式

     難波田城公園まつりのパンフレットによると・・・
     難波田城の守り神であったと考えられる南畑八幡神社で出陣式を行い武者行列をしながら難波田城に入城する。そして公園では火縄銃演武により、まつりのクライマックスをむかえる。
     このイベントは川越藩火縄銃鉄砲隊保存会により、市民公募の士を編成して実施されているようだ。
     写真は南畑八幡神社に出陣の挨拶・参拝をし、いざ出陣!するところ。

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    上鶴馬氷川神社(諏訪)

    【ホタル鑑賞】出来ます!

    数日前より、ホタル達が飛び始めました!

    是非とも皆さんで【ホタル鑑賞】にお出掛下さいね♪

    ※虫除けは、事前にお願い致します。
    また、暗く足元が滑りやすい場所ですので怪我などなさらない様に十分にご注意下さい。

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    旧新河岸川開拓記念碑

    記念碑文を読み、縦書きを横書きにし、漢数字を算用数字にしてみた。

    旧新河岸川開拓記念

    土屋亮晃 謹書
     旧新河岸川の歴史は南畑の歴史につながる。 かつての新河岸川は蛇行し、水量も多く 江戸時代より川越から浅草花川戸に至る重要な舟路であった。 川辺には伊佐島 蛇木 本河岸 鶉 の各河岸場があり、近村の商品輸送で栄えた。 旧河には木の太鼓橋があり、橋の両側には茶店などの商家が軒をつらねていた。 この南畑橋は、ちょうど上り下りの舟が行きかう地点であり また舟溜の場でもあった。 舟の灯が川面を照らし、夕闇を蛍が飛びかい、船頭が大声で言葉をかわし舟唄も聞こえて、風情をそえていた。
     一方、度々の洪水災害を蒙っていた為 南畑村長をはじめ関係町村長によって河川改修の請願が県知事に出されて採択され 大正8年に改修計画が本決まりとなった。 しかし改修の結果水深が浅くなり舟運が困難のため昭和9年に通船停止となった。 また、南畑橋も大正14年に新川に架替えられた。
     大正12年に行われた当地の新河岸川改修によって廃川となった敷地を活用して、国の食糧増産の要望に応える為 昭和26年に県農地開拓課により新河岸川第一地区開拓計画が立案された。 この開拓事業は既耕地を併買収し 国有廃川敷を加え、区画を整理して増反売渡をするものであった。
     その後開拓法の廃止 農地法の改正等諸般の情勢により、開拓計画が思うように進まないうちに二十有余年を経過した。
     かねてより、新河岸川開拓事業促進委員会を結成し、開拓促進の陳情をしていたところ 昭和52年に県農政課並びに県土地改良連合会の指導により、新河岸川廃川敷土地改良区を結成し同年9月に認可された。 ただちに確定測量を行ない登記を済ませ、すべての事業を完了した。 そして昭和54年3月24日に改良区を解散した。 ここに開拓事業の感性を記念し旧川のほとりに記念碑を建立する。
     よどみなく流れる新河岸川とともに、この碑が当地の産業開発の歴史を後世に伝えてくれることを念願する。
            勲六等 松澤卯三郎 撰文

    新河岸川開拓事業
      農林水産省有地面積 87,336 ㎡
      建設省有地面積 63,294 ㎡
      埼玉県有地面積 3,095 ㎡
      民有地面積 1,147 ㎡
      合計面積 154,872 ㎡

    昭和54年3月吉日 建立

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