難波田城公園・資料館
トンボのシャッター・チャンスを求めて
難波田城公園は散策で良く訪ねる。四季折々の花が資料館からも案内される。花も目当てのひとつであるが、もうひとつはトンボに郷愁・愛着がある。
蓮に止まるトンボなど過去には写真にとっているが、今回の画像は、8月下旬のアオヤンマ(?)、9月上旬の赤とんぼ(アキアカネ)。
実は名前は自信がないが、当公園は飛び交うだけでなく止まってくれるので、写真が撮れる、楽しみのスポットだ。
難波田城公園は散策で良く訪ねる。四季折々の花が資料館からも案内される。花も目当てのひとつであるが、もうひとつはトンボに郷愁・愛着がある。
蓮に止まるトンボなど過去には写真にとっているが、今回の画像は、8月下旬のアオヤンマ(?)、9月上旬の赤とんぼ(アキアカネ)。
実は名前は自信がないが、当公園は飛び交うだけでなく止まってくれるので、写真が撮れる、楽しみのスポットだ。
今日は台風15号の影響も少なく、午後から良い天気。星空シアターに出かける。 地元密着の活動グループが多数の模擬店を出していて、大層賑やかなお祭りとなっていた。
その様子を口コミにしたく、地元の園児の神輿と星空シアターの賑わいを写した。また地元ミュージカル出身の「こけぴよ」も応援したく窓枠とする。
やはり祭は楽しい。
散策人は氏子ではなが、歴史性・継続性のあるものに興味があって夕方、参詣する。
奉納される獅子舞は太田道灌の時代、それから時代が下って徳川時代から継続して奉納されているという。
諏訪大祭についての口コミを、「諏訪神社」編」と「雲居の滝」編でする。
「雲居の滝」編・・・富士見市民大学の皆様が、毎年、雲居の滝に竹の献灯で、祭礼を祝っている。今年は、また一段と竹灯籠も多くなり、かつ富士山も大きくなっていた。富士山には可愛い、夢のある絵もあり、なかなか工夫されていた。輪投げ、ザリガリつかみなどの趣向も加えられていて、楽しいエリアとなっていた。
このような参画があると、祭りも一層盛り上がる。感謝!
狛犬(こまいぬ)の起源・伝来などの情報を見ると、いろいろあって良くわからないのが正直なところ。
勝手に解釈すると、神社の本殿などの正面左右に置かれる事が多く、一般的に、口は開いた「阿(あ)形」と閉じた「吽(うん)形」とが一対となったり、「無角の獅子」と「有角の狛犬」とが一対となったりしているようだ。
では、雌雄はあるか? これもいろいろな説があるようだ。特に江戸時代になると、自己流の解釈や様々な俗説が信じられ雌雄の区別のある狛犬が作られるようになったという。
富士見市の神社は数々あれど、雌雄がわかるのは上南畑神社だけではなかろうか・・・
写真のどちらの狛犬が雄でしょう?
8・15は終戦日。昨今の新聞・ニュースに触れる度に、戦争の記憶が薄れつつあるようだ。戦後72年とは、そのような月日なのか?
「コンクリート釣鐘」を見て、価値観を共有して頂ければと思い、散策の口コミをした。
写真は大應寺の朱色の鐘楼とコンクリート釣鐘。
※昭和13年頃から終戦まで、武器生産に必要な金属資源の不足を補うため、政府は不要不急の金属類の回収を呼びかけた。当然宗教施設も例外でなく寺院の梵鐘も数多く供出された。
鐘楼は梵鐘の重量でバランスを保つ構造になっている事から崩壊の危険があり、多くの寺院では石・コンクリート等で作った代替梵鐘を吊り下げた。
昨日、水子貝塚公園にいったら、「土器の野焼き実施中」の看板があり、ついつい野焼きの、ほぼ全工程を見てしまった。
小学生のみんなが「夏の縄文土器づくり」で作成した土器や埼玉大学の皆様の土器、さらに星空シアター向けに市民学芸員の皆様が作成した土鈴、板状土偶などが並んでいた。
野焼き直前の土器と野焼き後の土器、どちらも色合いが美しく、かつ、その変化も面白い。小学生とは思えない作品もあってビックリもした。
また、焼成中に「縄文スープ」も御馳走になり、感謝感激!
このよな場所提供ができてる当市・当資料館は珍しい。あらゆる世代の人が気楽に体験してみることを進めたい気持ちになった。散策人もいつか体験したい。
それにしても、蒸し暑い中、700℃近くの火作業の土器の野焼き、かなりキツイ作業と見た。
7/28(金)には榛名神社・諏訪神社・針ヶ谷の氷川神社で夏越の大祓が斎行されていました。散策人は3つの神社の「茅の輪くぐり」をし、茅の輪の夏草に心の穢れを移し清め、暑い夏を越せるように祈願してきました。写真は、針ヶ谷の氷川神社の茅の輪です。
7/31(月)には、下鶴馬の氷川神社・水子の氷川神社・正網の氷川神社で予定されているようです。
※夏越の祓では多くの神社で「茅の輪くぐり」が行われる。鳥居などの結界内に茅で編んだ輪を建て、ここを氏子が正面から最初に左回り、次に右回りと 8 字を描いて計3回くぐることで、半年間に溜まった病と穢れを落とし残りの半年を無事に過ごせることを願うというものです。