
DENKA HOUSE くぼたでんき
ハマちゃんだ!
くぼたでんきさんに寄りましたらハマちゃんの色紙がありました。真面目な久保田さんは60周年の記念誌に北見けんいちさんの描いた元気くんのイラストを掲載したので北見先生にご挨拶の手紙を書いたそうです。先生からのお返事は色紙にはまちゃんがあり60周年おめでとうとコメントが添えてあったそうです。さすが昭和トラベラーのお二人、心温まるお話でした。4月5日から9日は創業60年祭を予定されておりますので多くのお客様が来店されればいいなと思います。
くぼたでんきさんに寄りましたらハマちゃんの色紙がありました。真面目な久保田さんは60周年の記念誌に北見けんいちさんの描いた元気くんのイラストを掲載したので北見先生にご挨拶の手紙を書いたそうです。先生からのお返事は色紙にはまちゃんがあり60周年おめでとうとコメントが添えてあったそうです。さすが昭和トラベラーのお二人、心温まるお話でした。4月5日から9日は創業60年祭を予定されておりますので多くのお客様が来店されればいいなと思います。
恐竜は子供達に大人気です。日本では18道県で恐竜の化石が見つかっていて、特に福井県が多く恐竜博物館もあります。残念ながら埼玉県では見つかっていません。
そこで興味を誘おう(?)と、ほんごう幼稚園の自然観察園内に恐竜のオブジェがあります。当然のことながら無断で入ることはできませんが、富士見江川沿いを散歩しながら見ることができます。
まさに桜の季節となりました。山崎公園から鶉橋・下の谷公園あたりの散策はいかがでしょうか? 「カワセミ」も挨拶してくれるかもしれません。山崎公園には昨年口コミした「プリンセス雅」が満開です。
※この口コミは散策の口コミで、ほんごう幼稚園をPRする意図はありません。誤解のないようにお願いします。
ふじみ広報2月号(No941)で大々的に紹介された「座敷ぼうき」・・・
昭和30年代、「鶴瀬村のほうき草は日本一」と言われ、「ほうき産業」は地域の文化となっていましたが、時代の流れで、市内の職人さんはいなくなった。そこで「難波田城いきものがたり」の皆さんが「富士見市が誇る座敷ぼうき作りの技能と文化を後世に伝えていきたい」との想いで立ち上がりました。その成果がちょっ蔵(難波田公園内)、市役所で販売されている。・・・
現代の生活にあった商品開発(例えばパソコンのキーボード掃除など)ということで、ミニ箒作成で伝承中のようです。ちょっ蔵では写真のような大きさで300円、500円、800円のミニ箒が並んでいました。
「箒は縁起物」だった記憶があったのでインターネットで調べてみました・・・
◇矢乃波波木神(やのははきのかみ)・・・箒に宿る神様で家を守ってくれる神様。「はき、清める」ほうきの神様は魔を払い、招福のご利益も高いとして古くから慕われている。
◇ははき(ほうき)という響きから「母木=母体」と考えられ安産祈願としても伝わっている縁起物。・・・
そうです、「箒は縁起がいい!」のです。
埼玉県HP「埼玉ゆかりの偉人」で富士見市を検索すると、「渋谷定輔」と表示される。 渋谷定輔氏をご存知ですか?
小さいころから農業労働にあけくれ南畑小作争議にも加わった。その後、本格的な農民運動を始めるが、厳しい農作業の日々を送りながら、詩をつくり、日記を書いた。そして農民の生活を記録した「農民哀史」を著す。これは「女工哀史」の細井和喜蔵氏との約束でもあったようです。
◆鶴瀬コミュニケーションセンターホールのロビーに、画家・阿伊染徳美氏の寄贈の油絵<この風の音を聞かないか>が展示されています。
この大きな絵は、渋谷定輔・黎子夫妻、ポーランドの女性社会運動家ローザ・ルクセンブルク氏、わらぼっちのある風景で構成され、渋谷氏夫婦に敬意を表わしたものとなっています。
◆中央図書館には「渋谷定輔文庫」コーナーがあります。ここでより詳しく知ることができます。
※ロビーで写真を撮ったのですが、油絵はガラスで覆われているため、電灯や外の明りを反射して見づらいものになってしまいました。申し訳ないです、現場で見て下さい。
鶴瀬駅東口から富士見市役所へと向かう途中にある「諏訪橋」に
「富士見市はセルビア共和国のホストタウンです」と「ようこそレスリングのまち富士見市へ」の大横幕が設置されましたね!
至誠一致之美影碑
国民の武士的精神に富めるは我帝国の精華として
宇内万邦の称揚惜かさる所なり 抑在郷軍人の任た
る上勅諭勅語の御趣旨を奉礼し戮力協心常に軍人
精神の鍛練に努め軍事知識の増進を図り 以て世界
の平和を保証し国家の隆昌に対揚せんことを期す
るに存り 故を以て之れか団体施設の事たる一にし
て足らすと雖も動もすれは其の経費の関係より左
齬右齟思うて為す能はさるもの一再にして止まら
す 洵に以て憾と為す前分会長故正八位輜重兵少尉
高野辰君 夙に之れを概き乃ち提議して基金造成の
計を立て大正6年11月基金募集の議を決し翌7
年之れに着手し以来5星霜挙村亦翕然として之れ
に応し醵金3000余円に達し分会の基礎始めて確立
することを得たり 因つて賛助諸彦の芳名を石に録
し其の赤誠を無窮に伝ふと云爾
大正11年11月25日
帝国在郷軍人会水谷村分会撰
埼玉県入間郡書記関野亀之助書
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漢数字、旧漢字は変換、カタカナはひらがなにしています。
前回と同様に、明治・大正時代の碑文の「読み下し」は難しいですが、「帝国在郷軍人会」の様子を垣間見ることができます。
耕地整理紀功碑
耕地整理紀功碑 埼玉県知事正五位勲四等島田剛太郎篆額
我邦古称瑞穂国土壌肥沃人情敦朴至輓近人多地少漸生争鬩則整理耕地以通灌漑
以増地力蓋可謂済時之急務也入間郡水谷村整理地区南沿柳瀬川東隔新河岸川接
宗岡村東西1300余間南北550間面積83町1段2畝21歩而水源
窮乏僅有2潴水以供灌漑然其排水口土地甚低下与柳瀬新河岸水路僅通耳以故旱
歳田無完毛水歳則逆流汎濫就中如明治40年及明治43年洪水没全区稲梁枯腐悲
惨不可名状郷之先輩有志苦慮経年会農商務省有奨励耕地整理之挙下付補助金本
県亦給以低利資金村人踴躍鋭意従事遂用/隣村三芳村竹間沢大排水為水源設耕地
整理組合明治44年2月18日起工至同年10月6日竣工塍路井然溝澮称之運
搬之便灌排之利莫一不備而新得耕地5町3段歩於是積年之望始達闔村開愁眉洵
為昭代盛事焉鳴呼村人能利此機一致協同無愆厘生之道則今日之挙豈惟済時之急
務而己余久為本郡長常目賭惨状与有志先輩同憂者則碑銘之請不可以不文辞乃為
叙其梗概以貽後人銘日 克勝天時 克制地利 協心致和 剪除旧異 河伯戢威
炎帝釈奰 良穀穣々 嘉禾穟々 衣食己足 人知礼義 郷俗以敦 萬世受賜
大正2年1月上浣 埼玉県入間郡長従六位勲五等市川春太郎撰
埼玉県入間郡書記 神山太三郎書
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漢数字、旧漢字は変換しています。漢文・漢詩調のため解釈が難しいですが、概要を推測することは出来ると思います。碑文読解については、「田んぼ今昔」(平成26年春季企画展<難波田城資料館>の図録)を参照しました。